そのまま、唐崎の松まで歩いた。三十分ほどだ。
　まあ、ここもいいが、そう騒ぐほどのことではない。何代目の松なんだい。でも、いいね。
　なんせ、近江八景の一つなんだ。そばには、みたらし団子発祥の店がある。食べてみたかったが、残念にも、閉まっていた。
　うろうろしてるうちに、夕方になった。二人は近くの駐車場の奥から湖岸に降りた。琵琶湖が目の前に広がる。いい景色だ。ここは春になると、桜がきれいだ。湖岸の葦もきれいだ。
ここで座り込んで、ビールで乾杯した。
「山田さん、よくやってくれた。ご苦労様。俺は今、体調が悪く、お酒は節制中であまり飲めないが、まあ、たくさん飲ってくれ。時間はあるから。約束のお金の一部は持って来てあるから、あとで渡すよ。俺は、飲む前には体調を壊さないように栄養剤を一つ飲むんだ。君はどうなんだい、大丈夫か？」
「ええ、僕は大丈夫ですよ。でも、最近飲み過ぎだし、今日は少し疲れてるんで、念のために僕も貰おうかな」
　二人は枝野が出した二粒のカプセルを呑んだ。
　見た目は同じだが、枝野のは単なる栄養剤。山田に渡したのは睡眠薬だった。カプセルが溶けるまでには時間がかかる。
　飲みながら、枝野が言う。
「ここは近江八景の一つなんだ。近江八景って知ってるだろ。石山の秋月、瀬田の夕照、粟津の晴嵐、矢橋の帰帆、三井晩鐘、唐崎の夜雨、堅田の落雁、比良の募雪の八か所だよ。俺は一度行ったことがある。ここが唐崎の夜雨なんだ。時間があれば、全部回ったらいい｣
　ポケットから取り出した資料を見ながら、山田に説明するのだった。
　約束のお金を貰い、優しく言う枝野の話に、すっかり安心して飲む山田だった。けっこう、単純な男なのだ。かなり飲んだ後、カプセルが溶けて山田は眠りこんだのだった。
　そして、枝野はすっかり寝込んだ山田を湖水の中へ押し込んで、溺れさせたのだった。
　ポケットに用意していた近江八景の資料を突っ込んで。携帯電話を奪って。近江八景散策中の事故に見せかけるんだ。
　ここらへんは、ほとんど誰もいない。淋しい所なのだ。
　首尾よく事を行った枝野は野球帽とサングラスを外して、監視カメラに用心して、唐崎まで戻り、京都駅へ出た。そして、東京へ戻ったのだった。途中で野球帽とサングラスとポロシャツと携帯電話を処分した。 

　翌朝、近所の人が散歩していて、葦の陰に浮かんでいる水死体を発見した。
　大津署と救急隊が駆けつけたがすでに死んでいた。周囲にはビールの空き缶や焼酎の空瓶が散乱していた。
　どうやら、泥酔して湖に落ちたらしい。
　所持品から東京の山田という人間だった。彼は天涯孤独だった。知人も家族もなく、遺体の引きとり手もない。東京の住所を調べた大津署だったが、何もない。しかし、どうやら、元は少し名の売れたタレントだったようだ。
　監視カメラにも大した情報はなかった。一人で歩く山田と、その後ろを歩く野球帽とサングラスの男が映っていた。特に話をするでもなく、二人の関係ははっきりしなかった。
山田は独り者だった。　
　自宅を捜索したが、特にめぼしいものはなかった。パソコンにも大して情報はなかった。
かなり自堕落な生活をしていたらしい。
　引き取り手のない彼の死体は、無縁仏として処理されたのだった。
　奈良の事件の捜査の過程で、《噂の情報》誌の被害者の調査を行う過程で、元タレントということが判った。
　しかし、奈良の事件も、そのままになってしまったのだった。